紙の歴史・機能に関して

「大ハリス・パピルス」に描かれた神々

 たゆみない歴史の中に現在の紙と似たものが初めて登場したのは、今から約5000年前のこと。古代エジプトで、パピルスという草木の茎の繊維を縦横に重ねて作る“パピルス紙”が発明されました。
 パピルス(PAPYRUS)は紙(PAPER)の語源となり、古代エジプトはパピルスと織物の輸出によって世界的名声と富を築いたといわれています。しかし、彼らは一体何のために紙(書写材料)を創り出したのでしょうか?
 そこに描かれていたのはヒエログリフと呼ばれる難解な象形文字。当時でも一部の神官にしか読むことができない文字で天文学、占星術、宗教などに関することが記されていたそうです。

 大切な情報を守りながら次世代へ引き継ぐ手段として、紙は誕生したのです。「漉く」という工程を経て現在の紙の原型となったものは、紀元前2世紀頃中国で発明されたと考えられています。その製紙術が我が国に入ってきたのは推古18年(610年)。「日本書紀」に高麗の僧によって伝えられたとありますが、聖徳太子を始祖とする説など、各地の紙漉きの郷にさまざまな始祖伝説があります。

 実在する日本最古の紙は正倉院に保管されている、大宝2年(702年)の美濃・筑前・豊前の戸籍用紙。その頃紙は特定階級層のものであり、主に行政文書、写経、護符といった記録材料に利用されていたようです。
 それでも人々の暮らしに密着した紙文化は着実に芽吹いていました。
 奈良時代にはすでにこより細工が生まれ、平安時代には紙衣(和紙で造った着物)も作られています。やがて紙布(和紙を裁断し、つないで撚りをかけた糸で織る織物)や一閑張り(和紙に漆塗りをした細工物)の技術を始め、「塗る」「染める」「張る」「撚る」「折る」など、和紙をさまざまに加工することで手箱、器、提灯、水引、燭芯、玩具といった多くの生活用品が作られます。
 紙は人々の知恵によって育まれ、暮らしに欠かせないものとして社会に定着していったのです。

紙の街「富士市」

富士市空撮

 日本は世界でもトップクラスの製紙技術を持つ、世界第3位の生産国。静岡県は全国一の生産量を誇り、中でも富士市は国内生産量の約10%を占める“紙の街”です。

 富士市の紙づくりの起源は江戸時代に遡ります。富士地区特産である三椏を原料とした“駿河半紙”と呼ばれる和紙がその始まりです。駿河半紙は楮が原料のバリバリとした和紙に比べてしなやかであることから「女性的な紙」と評され、緻密でコシがあり、墨付きがよく、墨抜けしないと大変人気がありました。書道半紙、瓦版、刷り物、読み物などに広く利用され、豊富な資金を持つ江戸の町人による町人文化を支えていたといわれています。

 明治に入ると和紙生産が手漉きから機械漉きへと転換し、水源が豊富な富士市には和紙工場が相次いで設立され、紙の街としての基礎が築かれました。
 ほどなく国内で洋紙の生産が始まります。欧米では製紙原料に木材(パルプ)が使われるようになっており、それにはこれまで以上の水力が必要なため、東京など都市部から大資本による製紙会社が進出してきます。富士市は原料の木材、工業用水を充分に得られる風土である上に、東海道鉄道も開通して輸送の便にも恵まれていたからです。

 こうして富士市は紙の街として黄金時代を迎え、紙の需要拡大に伴って現在も発展を続けています。
 霊峰富士と雄大な駿河湾に抱かれ、これまでもこれからも、その恩恵に感謝しつつ…。